うつ病と自分 ⑤復職と婚活と新しいコミュニティ

会社への復職

2018年の3月頭に復職をした。

 

自分のもともと希望していた、ある技術系の部署に転属となった。そのとき、自分が休職する際に所属していたプロジェクトに戻るという案と、転属となる案が提示された。自分は、ほとんど迷わずもとから希望していた転属する方をとることにした。その分野の勉強も少ししていたというのもある。

 

実は、その部署には自分の同期から前々から誘われていたのだ。ただ、いろいろな社内の都合があって、それが叶わず配置されたプロジェクトで前述したように心身を壊した。

 

そのため、自分のやりたいことをやったほうがよいだろうと思ってその部署を選んだ。しかし、一般には復職する際には、もといた部署に戻るほうがよいとされている。全く新しいことでは学ぶための負荷もかかるし、もともとできていたことから業務量を調整したほうがリハビリによいからだ。

 

結果としてはそのとおりで、この部署での仕事はあまり自分には合わなかった。仕事の内容は、前任者があるPJでデータ解析用に作成したソースコードを読んで、それを汎用的なものに作り変えるというものだった。

自分は、その分野にそもそも詳しくはないし、仕事の文脈を理解するのが難しかった。また、コードを理解する能力も書き換える能力も不足していた。なんとか、同僚の力を借りて最低限のものを作った(と当時は思っていたが、今思うとそれにも達していない)。ちなみに、自分をその部署に誘ってくれていた同期は、自分と入れ替わるように退職していた。自分が休職している間に状況は大きく変わっていたのだ。

 

体調も安定せず遅刻や休む日も頻繁にあった。

復帰した会社生活は、あまり順調とはいえない滑り出しだった。

 

社外でのコミュニティ参加

そのころ、自分はある飲食店を中心とするコミュニティに参加するようになった。始まりとしては、自分の物販ビジネスに関連してその経営者の人物の経営手法に興味があり、話してみたいと思ったのがきっかけだった。

そこでは、自分と同じようにうつ経験があったり、会社や学校からドロップアウトした人だったり多様さに惹かれて、ビジネスというより人間関係のほうがメインの目的となりのめり込んでいった。

自分より若い人も大勢いて、その人達に酒やごはんをおごったりするのもなかなか楽しかった。

また、そのときから自分が取得したばかりのカウンセリング資格を生かして、ネットで募集してお話を聞くというカウンセリングも始めていた。

そのコミュニティに参加することにより、そのカウンセリングのお客も順調に獲得できるようになった。

そこでは、友人といえる人も何人かできた。会社ではあまり順調とはいえなかったが、社外では結構楽しい思いをしていた。

 

婚活のその後

結婚相談所に登録したことにより、何人もの女性と出会った。服をコーディネートしてもらい、身だしなみも良くした。その出会った中には素敵な女性もいた、日本人もいれば中国人もいた。複数回デートした人もいた。どうやら、自分は日本人男性・中国人女性の婚活市場では比較的有利なポジションにいるようだということはわかった。

中国人女性でその結婚相談所に登録している人は、日本で仕事を得て日本で生活をしていきたいという人が大半である。また、資本大国となった中国でも地域によっては、現在でも日本の標準からは大きな経済的格差がある。女性が若く男性が高齢で、あまり感情が伴わなかったとしても、在留資格を得るための結婚というのはいまでもあるようだ。

日本人男性ではじめから中国人女性を求める人は、自身が高齢だが相手の女性は若いことを求めていることが多い。それでも、女性側の都合でお互いのニーズにマッチすることはある。とはいっても、中国人女性もできれば自分と同じように若い人がいいと思っているものだ。そこで比較的若い自分(30歳そこそこなら若い部類だ)は条件としてよいのである。年収も年齢の割には高い。

ただ、結果としてはこの結婚相談所経由ではどの人とも最後まで付き合うことはなかった。途中で、前述したコミュニティのつながりで、ある日本人女性と交際することになったからだ。

中国人女性も魅力的だったが、価値観がやはり違うなと思うこともあったりして、続きそうには感じなかった。

 

その交際することになる日本人女性は、自分よりも高学歴で、しかも結構苦労して勉強してきた人であることが気に入った。自分から何回かデートに誘い、3回目で告白した。そのときオーケーされたのだが、なんとなく雰囲気で喜んでいる感じは伝わらなかったのが気になっていた。

 

交際開始した直後、彼女が引っ越しをしたり出張があったりで忙しそうにしていて1ヶ月ほど会えない日々が続いた。そこで、久しぶりに会ったところ、唐突に「やっぱり別れない?」と言われて振られてしまった。理由を聞いたが、「やっぱりなんか違うと思って」と謝られてしまった。

 

その当時は「女性はやっぱりよくわからないな。。」という感想だった。混乱はしたが、体調を大きく崩すようなことはなかった。

しかし、いま振り返ると、自分の気持を優先して事を急いだ自分がよくなかった部分もある。お互いの気持ちを確認するには、もっと慎重にならなくてはいけない。

 

短期の交際で別れることになったが、もう結婚相談所も登録を解除してしまっていた。もう、いまさら新しく結婚相談所に登録する気力もなく今に至る。

 

ちなみに、その後からいまに至るまで女性関係は進展がない。厳密には何もなかったわけではないが、ここに書くほどのことではない。

 

二重生活

この稿を書いていて思うが、この当時はもう、あまりうつ病とは関係なくなってしまっているように見える。実際に、うつ病であるという認識はあまりなくなっていた。体調不良により休みがちなのもそれほど気にしていなかった。

しかし、このころの自分の体調は、朝起きるところから始まり会社ではあまり元気がでないが、会社から一歩外に出ると元気になりアクティブにいろいろこなすという状況で、昼と夜の二重生活を送っていた。

いろいろあったにしてもプライベートは充実していた。楽しかったと思う。一方で、仕事の方はうまく行ってなかった。表向きは体調不良ということにしていたが、明らかに能力不足があった。能力不足による合わない仕事によるストレスと、実は回復していないうつ病、それでも楽しいからやってしまう外でのアクティビティ。

 

この3点の間で、少しずつ自分自身と環境の歯車は狂っていくことになる。

 

うつ病と自分 ④休職中(後半)副業と婚活を始める

2018年になり、自分の休職期間も残りがわずかになってきた。休職できる期限は3月頭までとなっていた。

 

当時の自分のツイッターアカウントをみると、非常に多くのツイートをしている。経済的なことや、仕事についての考え方が中心のようだ。一度失敗(休職)しているからか、少し距離をとった偉そうな物言いが多いといまは感じる。

 

この当時の自分は今思うとすこしおかしいと思えるのだが、事を急くようにいろいろなことを始めている。副業のネット物販と婚活を始めているし、まさにこの時期に引っ越しもしている。このすこし先にはカウンセリング(をする側)もやり始めている。

副業を始める

このときか、それ以前からか会社の給料以外の収入を欲しいと考えるようになった。

一度休職して会社組織から離れてみて、そこで一生懸命働いて給料を稼ぐことに疎ましさを感じるようになっていた。いくら頑張ったところで、それは会社の利益であって、自分の利益とは関係ない。自分の利益を最大化するように生きたい。そう思うようになっていた。

 

実は、自分は、休職する前から不動産投資をしており、一棟アパートを所有していて、毎月副収入が存在していた(これは今も継続している)。

ただ、それだけで食べ行ける金額ではないので、副収入をさらに増やして、いつでも会社を辞めれるような体制にしたいと考えた。

 

まずは、新しく不動産を購入することを検討して、知り合いの不動産営業の人に新しい物件を紹介してもらった。わるくない物件もあったのだが、融資にあたって自分がうつ病の治療中であることが壁になった。

不動産の融資を受けるときには、団体信用生命保険というものに加入することが義務付けられることがある。この保険は、加入者が死亡した場合にその融資を完済することができるものだ。この条件で、うつ病などの投薬治療中であることでNGが出た。

そのため、さらなる不動産投資は一度諦めることにした。治療が終わって、寛解したらまた挑戦すればよい。その間べつのことで現金を確保し、より有利な投資ができたらよいとも考えた。

 

そのため、別の投資または副業の方法がないか考えた。FXや株、ブログアフィリエイトなども考えたがピンとくるものがなかった。

 

その中で、中国輸入の物販ビジネスが面白いと感じた。

Amazonでは、FBAという在庫と発送の代行サービスがあり、中国からAmazonの倉庫に直輸入で納品することにより、自分は発送をすることもなく、利ざやが稼げる商品をみつければほぼ不労所得が得られるというものだ。

また、発送の手間はかかるがメルカリで中国輸入の商品がよく売れるという情報もあった。その当時、引っ越しをする予定があり、大量の蔵書を売るためにメルカリを利用して100冊以上売るなどもしていたため、メルカリというプラットフォームの魅力も感じていた。

個人の中国輸入というのは、中国でのECサイト(アリババ、タオバオなど)から購入して転売するのがオーソドックスな方法ではあるが、そのためには商品を代行して購入してくれる中国側の代行業者が必要になる。

その代行業者を自分で一から構築するのが関門だった。一般向けの大手の代行業者も存在するが、一度試してみてそのレスポンスの悪さやオーダーの手間暇に、現実的ではないなと感じた。

そこで、ある本を読み、その著者で物販ビジネスに成功し、コンサルをしているという先生に連絡をとった。代行業者だけでなく、ビジネスのやり方やツールの紹介もしてくれるということだった。コンサル費用はけして安くはなかったが、そこで得られる収入を考えると利回りにして不動産投資より効率がよいと思いお願いすることにした。

 

そうして、新しい家に引っ越すとほぼ同時に、物販ビジネスを開始することとなった。

復職の1ヶ月前の2月頭のことだった。

婚活をはじめる

この記事を書くために、過去のメッセージのやりとりなどの履歴を見て驚いているのだが、物販のビジネスとほぼ同時期(というか同じ週だった)に結婚相談所に登録して婚活を始めている。

 

友人から結婚相談所の人を紹介してもらった。その友人は上海出身の中国人で、その結婚相談所は日本の会社ではあるが中国人と日本人の国際結婚に強みのある会社であった。

 

そのころ、自分はうつ病という経験をバネにしなくてはという気持ちが強かったようで、経済的な面や人間関係の面の土台を強固にしなくてはというう強迫観念があったのかもしれない。

 

これを書いている今の自分は、後述することになると思うが、このようにエネルギッシュに動きまわることはできない。そのため、当時の自分がなにを考えていたか連続性をもって考えることができない。そのため、このように当時の自分の気持を他人事のように推し量るような書き方になっている。

 

とにかく、自分はその結婚相談所でまずは話を聞きに行くこととした。それまでに何度か単発の婚活パーティーに参加することはあったが、うまく行ったことは一度もなかった。自分はそれまで一度も女性と交際したことがなかった。女性と親密な関係になるということが嫌いなわけではないが、どうしたらよいのかよくわからなく、よくわからないので自分から遠ざけていたのだと思う。

 

なぜ、そのときに自分は結婚したいと思ったのだろうか。その当時は、うつ病になったことにより一人で生きていくことのリスクを考えるようになり、自分の人生に他人を支えたり支えられたりする関係を入れてより安定させたい、ということを考えていたし他の人にもそのように話していた。しかし、振り返ると、前述したようにうつ病を機に自分を変えたいという強い思いがあったのだと思う。関心はあくまで自分に向いていたのだ。

 

そのように少し歪んだ(?)考えをもちながら、結婚相談所に登録することにした。

 

このように、新しいビジネスに婚活にと、慌ただしい中で休職期間満了となり会社に復職することとなった。

 

うつ病と自分 ③休職中(前半)

2017年9月頭、会社に休職届を出して、休職を開始した。

 

医師からはまず1ヶ月の休養の診断書を出されていたが、その後さらに2ヶ月、さらに2ヶ月、もう1ヶ月と計6ヶ月の休職をすることとなった。

自分の会社では、休職できる期間が入社年数に応じて決まっており、自分の当時の年次では6ヶ月休職できることになっていた。その一杯まで休んでいたことになる。

 

さて、とにかく休めと言われたので、何をしようか。

自分は、当時ゲームが好きだったので(いまもやるが、それほど集中してやらない)気になっていたゲームを買い込んで、かなりやりこんだ。

そのときやっていたゲームは、ニーアオートマタ、ペルソナ5バイオハザード7、サイコブレイク2、フォールアウト4など。一部は、ある実績を解除することで獲得できるトロフィーコンプリートなどもした。とにかく時間はあったのだ。

 

昼夜逆転はあまり気にしなかったし、夜間に活動することのほうが多かった。自宅が会社の近くにあり、生活圏がかぶっているため、会社の人に出会うのを避けたいという気持ちもあったのだと思う。

 

この期間は、実家に10日間など長めに帰ったりしている。しかし、実家では家事は家族がやってくれるかわりに、やることがなくて手持ち無沙汰になる。携帯ゲームなどでは限度がある。また、昼夜逆転を親から指摘されたりするのも煩わしかった。

 

今振り返ると、そのように普通の人が寝静まっている時間に自分の好きなことをして過ごす時間は、回復によかったようである。

 

当時の日記を見ると、通院以外に引きこもっていたのは11月中旬ぐらいまでで、12月に入ると高速バスで静岡旅行にでかけたり、ジムやコワーキングスペースに通い始めている。うつ病のリハビリには、図書館通いがよいとされているが、自分は図書館があまり居心地がよくないのとネット環境が整っているコワーキングスペースのほうが何をするにも作業もはかどりやすいと考えたからだ。

 

そのころは、自炊もけっこうな頻度で行っており、身も心も健康になっているようなのがわかる。さらに、年末には仕事で役に立つように、技術を向上させるために3ヶ月程度の期間のプログラミングのオンラインスクールにも入会している。また、ドメインを自分で取得してブログを開設し、ツイッターアカウントを新しく作って運用を開始している(このアカウントをその後メインで使うようになる)。

 

このときは、本当にいろいろなことに手をだしている。今思うと、うつ状態からの反動だったのだろう。そのときの自分の認識は「もう回復しているが、せっかく休みが取れているのでやりたいことをどんどんやろう」というものだった。本当はもう少しセーブしておいたほうが良かったかもしれないが、今となってはどちらが良かったのかはわからない。

また、やりたいことと思ってはいたが、自分の本当にやりたいことはなにか、というより遅れを取り戻そうという意識が強かったようにも思う。

 

自分は「~せねばならない」という気持ちを「~したい」にすり替える認知の傾向がある。これは、おそらく自分がうつ病に至る原因の主たるものではないかと思う。この傾向は今ももちろんあるので、これを向後は変えていかねばなるまい。

 

年末には実家に帰った。年越しそばを食べて、紅白歌合戦を見て、雑煮を食べた。

年が明けると、地元で一番大きい社格の高い神社に行き、朝6時ぐらいから行列に並び5000円ぐらいを払って祈祷を受けた。病気という「厄」を払い、本当に新しい一年にしたいという気持ちだった。おみくじも大吉であった。

 

「今年はうまくいくぞ」そんなふうに思っていた。

うつ病と自分 ②休職開始

うつ状態」の初診を経て、休職することになった。

 

そこからは急展開だった。

診断されたその日に、別の場所にいた上司にとりあえず電話連絡した。夕方の4時ぐらいだったと思う。そこで、

 

「処遇については追って連絡するので、とりあえず今日は帰って休むように」

 

と言われる。社内の打ち合わせの予定などもあったが、ひとまずキャンセルして、自宅にて待機していた。

夜に上司から連絡があった。

 

「週明けて月曜日から休職とすること」

「あとの心配はいらないので、休養に専念すること」

 

と言われる。そのとき、自分は申し訳ない気持ちになり少し泣いた。上司の言葉はだいぶ優しかった。が、それが自分には少し辛かった。

 

その週末の土日は予定があって、それはキャンセルはしなかった。全く動けないという状態ではなかったからだ。

 

土曜日は、カウンセリングの講習があり、そこでのワークで自分がいま「うつ状態」であるのを診断されたこと、休職することになったことを話した。

こんなことを話すのには少し迷ったが、そこでの仲間に信頼感があったことと、カウンセリングの題材としていいのではないかと思ったので話した。

終わったあとに優しい声をかけてもらい、帰宅後にも嬉しいメッセージをLINEでもらった。そのことには今も感謝している。

 

日曜日は、一昨年亡くなった祖母の法事があったため神奈川の実家に帰った。

親に話すのは少し躊躇した。しかし、法事後にカフェに入ったときに話すことにした。

 

「ちょっと話したいことがあるんだけど」

 

と言いかけると、母親がなぜか少し嬉しそうな表情をした。多分、なにかいいこと(婚約とか結婚とか)を期待したのだろうと思う。期待を裏切って悪かったなと思っている。自分の家族は、父親と姉が鬱で休職していたことがあるが、自分はうつ病になるタイプではないと思われていたため、母親は結構驚いたようだ。

うつ状態であることを話し、予定はしていなかったがその日は実家に泊まることにした。

 

実家に帰ってもすぐに東京の自室に帰るのが通例だったが、この日は珍しく「だれかと居たいな」という気持ちだったのだ。

 

実家に帰って一泊した月曜日、言われた通り会社を休み実家の近所を散歩していたとき(床屋に行った帰りかもしれない。この辺は記憶があいまいだ)、会社の人事部のFさんから休職手続きについての案内の連絡が来る。翌日の火曜日に会社に貸与PCと診断書を持って行くこととなる。

 

次の日の火曜日、診断書を持って出社した。体調面を考慮して、時間を午後に設定してもらった。休職の手続きをFさんと社内web上で行い、PCを返却してから診断書を渡し、正式に休職することとなった。

 

「とりあえず暇になったなあ」と思ったので、会社を出たその足で渋谷に行き、気になっていたが忙しくてできなかったゲームソフトを何本か購入した。たしか、ペルソナ5とニーアオートマタだったと思う。

 

こうして、自分の休職生活は開始した。

 

そのときの自分の心境はどうだったろう。当時の日記にはこんなことを書いている。

 

金曜日に心療内科で、「うつ状態」という診断を受け、診断書を出された。上司にすぐ相談して、月曜から会社を休むことになった。
元気、とはとてもいえないけど、死にたいとかは思わないし食欲もあるので、大事ではない。と思いたい。
もともと用事もあったので、そのまま実家に泊まっている。 

 

この、うつ状態は、自分自身が望んだことだと思った。診断名は、社会的な名前をつけただけで、これは自分自身なのだと思う。

 

そのときは、素直に、自分がうつ病であることを認めていたようだ。

自分自身の性格や傾向において、うつ病当然の帰結のような気がしていた。その名前のなかった自分自身の傾向に病名として名前がついたようだった。

 

ある種、ホッとしたところもあるかもしれない。苦しさの理由がわかったからだ。

 

ただ、苦しさというものは、原因がわからないことも苦しいが、原因がわかってもそれを取り除けなければ苦しさは減るどころか増えていくものだ。

 

そのことに、自分はあとからだんだんと気づいていくことになる。

うつ病と自分 ①初診

まずは何を書こうか。

 

いま、自分のことについて書くとするととりあえず、うつ病のこととなる気がするので、それについて書きたい。

 

最初の投稿で「うつ病に患っている」と書いたが、そういう客体的なものではなく、それよりも深いところで自分自身につながるものになっているように感じる。

 

すべてのはじまりは、これを書いている2年前の夏。2017年になる。

 

自分は、IT企業でコンサルタントとして働いていた。現在は2度目の休職中である。顧客企業のあるシステムを刷新するために、ソフトウェアの選定や効果や問題点を整理し、抽出した問題点にたいして対応方法を検討し、スケジュールを作るというようなことをしていた。

 

年次に対して、難しいことを任されていたように思う。そのころは、別のもう少し技術的なことをやりたいという気持ちもあったのだが、周囲から期待されてそれに反発できずに、応えようとしていた。

 

会社と顧客先を行ったり来たり、社内の部署とも折衝をしたりでだいぶ心労が重なっていたようである。

 

たしか、6月ぐらいに参画したプロジェクトではあったが、7月、8月と経ていく中でだんだんと自分の体の調子がおかしくなっていくことに気づいた。

 

まず、朝起きるのが相当にしんどい。朝起きて、着替える際に最初に履く靴下が履けなくなったのが印象的に感じる。

 

次に、ミスをすることが増えたり、判断をするのに時間がかかるようになってきた。小さいながらもチームリーダーであったため、これは大変な不都合なことだった。

 

一度、リーダーを続けるのは厳しいと、上長に相談したこともあった。しかし、いろいろと励まされた挙げ句、「まあ、がんばろう」という形になった。そのときの絶望感はまだ今でも思い出せる。

 

やるにしても、体調面はどうしようもないので、「これは多分うつだな」という予想もあったこともあり、最初から心療内科に行った。

 

他の人のうつ病の体験記をみると、最初に病院にかかるときに心療内科や精神科ではなく、内科や眼科など身体的な症状を最初に訴えて、そこでは何も異変がないので、何回目かに心療内科にかかり、診断がおりるというケースがわりとあるように思う。

 

当時の自分としては、仕事から逃げたいという気持ちもどこかにあったのだと思う。そのために、心療内科に決め打ちで行ったという部分もあるようだ。もちろん、結果としてはビンゴであったためそれでよかったのだが、周りに相談してもしょうがないので藁にもすがる思いでその医者の門を叩いたようだ。

 

その医院は、会社からも家からもほど近い駅の間近にあった。そのころは、会社に近いアパートを借りて住んでいた。

 

その日は金曜日だった。朝の体調が最悪だったが、打ち合わせがあったため出社はした。もうどうしようもないと思ったため、朝、客先についてから自宅に近い医院を調べて電話をした。幸い、初診を当日受けれるとのことだったためその日の午後に予約をした。

あとでわかったことだが、その医院は通院患者は診察の予約をしないことになっている。おそらく、予約をしてその日に体調不良になった場合、それがきっかけで通院をしなくなったら困るからという面があるのだろう。また、初診はなるべく当日でも飛び入り対応しているようだ。病気の性質として、自殺の危険性があるため、最初のシグナルを逃さないためだと思う。

 

午後に通院すると、院長先生から診察を受けた。丁寧に仕事の状況や家族の病気の経歴の有無などを聞かれ、アンケート形式の簡単なテストに答える。

 

すると、「うつ状態」という診断を受けた。

 

やはりな、と思った。ただ、「うつ病」ではなく「うつ状態」とは?

 

あとで調べてわかったが、抑うつ状態は様々な精神疾患に共通した状態であり、病名をきちんと特定するためにはある程度の期間の診断が必要がとのことであった。

 

自分がうつ状態であることはわかった。そこで、医師から「じゃあ、とりあえず休もうか?いつから休める?」と聞かれる。

すぐに休むことになるとは思っていなかったので、そこで少しひるんでしまった。

 

2,3日調整することとして、翌週の水曜日から休職の旨の診断書を書いてもらった。

 

そのときの気持ちはあまり覚えていない、ただ落ち着いた雰囲気の待合室で焦燥感に駆られていたことと、診断書を書かれた驚きは覚えている。

初投稿

ブログに登録をしてみた。

これから、何を書いていくかはわからない。

自分が患っているうつ病については書いていこうかと思う。

いつ終わるかもわからない。ネットの海に自分の断片を投げいきます。