嫉妬心とともに
昨日、友人と会った。
お茶をして語らっていい時間を過ごせたと思った。
が、別れる前に彼女ができたという報告をされて、ショックを受けてしまった。また、その彼女とは共通の知り合いだった。
なんとなく、仲が良さそうでつきあっているかもなあと薄々思っていたが、本人から報告されて動揺した。
どうして、自分は動揺しているのだろう。
自分だけが取り残されたような気がしてしまったというのが一番近いようだ。いや、もしかしたらその友人を少し見下していたところがあるかもしれず、それがしっぺ返しされたように感じたのかもしれない。
しかし、彼には自分よりもたくさん友人がいるし、イベントを一緒にやっていても彼のほうが信頼を得ているようだ。
当然、そのような関係を得ていても不思議ではない。
自分がその差を感じることでショックを感じるという事自体が驚きだったかもしれない。あの告白を唐突にされたことが一夜明けてもリフレインする。
こんなことに自分が動揺して、心が乱れて、嫌な気持ちになるなんて、自分がそのようにあることが嫌なのかもしれない。嫉妬心がある。自分より他人が幸せになっていくのが許せないところがあるかもしれない。でも、自分はなんも努力もせず、休職して休んでいるだけだ。
嫉妬心を自分は持つべきではない、と考えていることに苦しみがあるのだろう。
できれば、あまりもう人と会いたくない。引きこもっていたい気持ちだ。
だが、引きこもっていてもしょうがないし、明日も明後日も人と会う予定がある。
自分が嫉妬心をもつということを受け入れていくしかない。
苦しみをこれ以上増やさないためには、その感情に一度ひたりきるしかない。
ちくしょう。
自分たちだけ幸せになりやがって。
俺はおいてけぼりか。
こそこそ隠れていちゃいちゃしやがって。
俺は祝福なんかしないぞ。
セルフインタビュー 自殺願望と向き合ってみる
自殺願望と向き合ってみる。
自殺したい、死にたい、消えたいという気持ち。
これについて、自分自身に問うてみる。
Q.死にたいと思い始めたのはいつごろか?
A.一番最初にそれを思ったのは、学生のころではないかと思う。大学院生のときに、勉強に行き詰まって苦しくなった。そういう弱い自分を振り切るために、いまの会社選びをしたというのもある。就職してからは、きついプロジェクトのときに、「しんどいな、楽になりたいな」と思うこともあった。だが、そのときは会社以外での収入を得ようと投資の勉強をしたり、転職活動をしてみたりと、対処法を講じることはできていた。一番しんどいのは、二度目の休職をしてから。現実的な対処としていた副業がうまくいかず、復職にも希望を見いだせないという状況で、いっそのこと楽になりたいという気持ちが強まった。
Q.つらいことはいままでもあったとのこと。それまでに行動に踏み切らなかったのはなぜだと思いますか?
A.自分は悪くない、自分はうまくやれる。という気持ちに自然になれたから。具体的な対処法を考えて、行動に移せた。抜本的になにかが変わったとは限らないが、行動しているうちは行き詰まりをかんじなかった。
Q.死にたい気持ちは一日のうちどれぐらいの割合で考えている?
A.まず、朝起きたときにはそれが脳裏をよぎります。また一日がはじまるのかあ、というのがしんどい。あとは、日によるが、夕方に考えることも多いです。
Q.なぜ死にたいと思う?
A.生きていて行き詰まりを感じるから。このまま復職してもよい職場に恵まれるとは限らないし、自分がやっていく自身もない。その努力をしよう、という気分にもなれない。そのような自分は、生きていく価値がないと思う。
Q.上手くいく可能性だってあると思いますが、それについてはどう思いますか。
A.多分、すごく上手くいくと著しく失敗する、の二通りしかないと感じてしまっているのだと思う。すごく上手くいく、はありえない場合しか想定できていない。そこそこうまくいく、普通、平凡といったパターンはあまり考えられていない。と思う。
Q.なぜ、中位のパターンを考えられないのですか?
A.病気のせいで悲観的になっているというのもあるし、もともとの性格もあると思う。正直なぜかはよくわからない。
Q.こういうストーリーは考えられないですか?復職して、すごく良い職場というわけではないが、そこそこのところに入ることができて、やっているうちに努力したいという気持ちも出てくる。という。
A.考えられなくはないかもしれない。
Q.逆に最悪のパターンはどういうものを想像していますか?
A.復職して、周囲から冷たい対応をとられる。結果として、退職をせざるを得ない状況になる(会社都合退職にはさせないだろう)。再就職する際に、いまの会社よりよい条件でいける会社が見つからなくなる。再就職に非常に苦労する。そこまで、想像するとそこまでして生きていたいかなあと考えてしまう。
Q.その最悪のパターンは発生しそうですか?
A.わからない。でも、うまくやらないとそうなる可能性は十分にあると思う。うまくやれる自信があまりない。
Q.逆にどういうことがあれば、自殺しなくて済むかなと思いますか。
A.十分なお金、親身になってくれる友人や支援者
Q.どういう状況になったら、自殺しなくてはと思いますか。
A.経済的な失敗。職がなく、地位のない状態。
Q.無職の人でも普通に生きている人はたくさんいます。それについてどう思いますか。
A.その人達は強いのだと思う。自分に自信がある。自分にはそれがない。
Q.自信があって、お金もあり、友人もいる、という状況では自殺は考えないと思いますか?
A.脳裏をよぎることはあっても思いつめないと思う。
Q.どういうときに思いつめることが多いですか?
A.一人でいるとき。ひまな時。
Q.自殺したい、消えたいと思うときはどんな気持ちですか。
A.この世界には、自分ひとりしかいなくて、寂しい感じ。頭がすごく重くなる。視界が狭くなり、身体が思うように動かなくなる。
Q.それは辛いですね。相談する相手はいますか。
A.いることはいる。母親と友人の一人。でも、先月一番つらいときには電話することはできなかった。
Q.死にたいと思わないときはありますか?また、それはどういうときですか?
A.生きようと強く思うことはあまりないが、希死念慮を忘れるときはある。どういうときか。。それは、未来に対して見通しがつくとか希望を感じられるときかな。
Q.これから、どういう状況になるのが希望ですか。自由に言ってください。
A.不安のない状態。自分が生きててもいいと思えるようになること。お金に余裕があって、気持ちにも余裕があって、人助けができること。
Q.もう少し具体的にいうと?何が足りない?
A.自分のやっていこうという意志力。そのきっかけ。自分を大切にし、他人を大切にする気持ちが必要と思う。いまはそれがない。とても受動的。能動的になりたい。
自傷感情と親とランチした話
先日、母親と一緒にランチをして、横浜を観光した。
ランチは、ビュッフェ形式でいろんな種類の肉だの魚だのを食す。
観光は、横浜駅の近くから遊覧船(水上バス)に乗り、山下公園まで。
春休みということもあってか、家族連れが目立った。
その中で、31歳と60歳の母が連れ立って歩く。
母は、自分の病気についてはとやかく言わない。無理するな焦るなと言ってくれる。
そのことをありがたいと思う半面、自分が死にたい・消えたいという自傷感情を持っていることを見透かされているようでもある。
母親を始め、周囲が悲しむことを考えると、自殺は最善の手段ではないのは確かだろう。
ただ、それしか見えない瞬間があるのは確かだ。
問題は、その瞬間が恒常的に思えてしまうことだ。
死にたい、つらい、何もする気がおきない、このような感情は金属が摩滅していくように身を削ってくる。ビビットなものではないのだ。
母親はまだまだ健在であろう。そのあいだ、自分が健康でいられる、もっといえば、生きていける自信があまりない。
一般的に、自殺は、年齢が高くなればなるほど割合が増える。
歳をとればとるほど、人生は手放したくなる可能性が増えるということだろう。
いま、自分は自分の人生をできれば手放したいと思っている。
いや、本心ではそうではないのかもしれない。「自分の人生をよく体験できる自分」が取り戻すことができればその限りではないのだろう。
自分の人生をよく体験できる自分を、どのように取り戻すのか。
それは、まだ皆目検討がつかない。
激しく辛い道のりにも見えるが、案外簡単に行ける裏道があるかもしれない。
それを求めて生きていくことができればいいと思っている。
「うつからの完全脱出」を読んで
下園壮太「うつからの完全脱出」という本を友人からのおすすめをされて読んだ。
うつからの完全脱出 9つの関門を突破せよ! (こころライブラリー)
- 作者: 下園壮太
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/10/21
- メディア: 単行本
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この本には、うつ病からの回復にあたって9つの関門があるとしている。
それぞれ、以下のようになる。
①休むという決心をする ~ 自分の弱さを知る
②医療への不信感を乗り越える ~ 人を信頼する不安との戦い
③家族や職場の理解を得る ~ 自分の中に潜む周囲への甘えとの戦い
④無意識の恐怖との戦い ~ ”休む”という新たな行動を実行する
⑤復職への恐怖との戦い ~ 勇気を出して自分の状態を打ち明ける
⑥知覚できない疲労との戦い ~ 客観的なデータで休養をとる
⑦早く治りたいという焦りとの戦い ~ うつの波を実感する
⑧リハビリ中期の大きな落ち込み ~ 悩みと直面し、受け入れる
⑨リハビリ後期の自殺衝動の嵐 ~ 死にたい気持ちを上手にやり過ごす
関門というのは、うつ病の困難さについて時系列で並べて述べているものである。
疲労なので、休むことがなによりも重要である。しかし、うつ病の人にとっては休むことが難しい。
①では、診断を受けて最初に休むまでの難しさについて述べている。「休まない自分」「頑張る自分」という自己イメージを捨てて、休息に入ることを書いている。
②では、うつ病の治療は長期にわたるものなのだが、患者はすぐに治る「魔法の特効薬」を期待してしまいがちである。そのため、医療への不安を感じやすい。大切なのは効く薬をみつけるために、効果や副作用について伝えること。わからないことがあれば質問することとしている。
③では、うつ病の支援で必要な他者(家族や職場)の支援を得るために、自分の状況について理解をしてもらうことの重要性を説いている。「わかってくれる」という甘えは持たないことだ。
④では、本格的に休息に入ったときの休み方について。「しがみつき」というそれまでのストレス解消方法にたよってしまう危険性。アルコールやギャンブルといった行動はうつ病にはマイナスに働く。
⑤復職後の職場でどう見られるか不安で、自分の病気のことについて伝えることの必要性。第三者(カウンセラー)などを通してでも現状について理解をしてもらう。
⑥うつ病は疲労を感じにくい。数値化したり、疲労感に代わる事象(肩がこる、階段を登りたくないなど)を捉えることにより、疲労をためすぎないこと。
⑦うつ病の状態は波がある。記録を続けることで、自分の悪い時期がどれぐらいの長さであるのかを把握し、焦らないこと。
⑧リハビリ期間の停滞時期。生きる意味や過去のトラウマにさいなまれる場合がある。また、相性の悪い出来事(転職や離婚)を避ける。
⑨自殺願望についての対処。一人で悩まないこと、悩む時期を延期させる(抱える)こと、元気になったからといって無理しないことなど。
全体を通して、
・休むことの重要さ
・周囲の理解を得ること
・自分について理解すること(記録)
を繰り返し述べている。
これまでの自分を振り返るとどうだろう。
休むことはまあまあできているのではないか。というか、この合計で1年近く休職をしているわけで、もう休み疲れた(?)というレベルですらある。
しかし、平日の夜や土日、いろいろな予定を入れたくなる誘惑もあるだろう。それはこらえて、休息して体力を蓄えることが重要だ。
周囲の理解を得ることはほとんどできていなかったなと思う。
うつ病というのは、周囲にはほとんど理解できない。というより本人もよくわからないものだ。しかし、実社会でリハビリしていくためには協力者を得る必要がある。
うつ病の人は対人恐怖感を持ちがちだが、うつ病そのもの、また自分のいまの状況を適切に周囲に伝える努力が必要だとしている。
自分は、なかなかこの現状を伝えるというのがうまくできていなかったように思う。どうせ周りは理解してくれないだろうという思いと、わかってほしい・勉強してほしいという甘えの矛盾する感覚の中で、自分のことを伝えることを怠ってしまう。それが生きづらさの原因となるのだ。
一度目の復職の際には、最初に配属されたチームの上長には体調についてカウンセラーなどとも交え伝えるようにしていた。しかし、2つ目以降のチームではそれを怠っていた(注意されるまで放置)。それが居づらくなった理由であろう。チームを短期で変わっていくようになってしまったのは運が良くないが、その度に説明を怠らないことが必要だろう。
自分について理解すること。これは、体調やメンタルの波について記録し、不調のときに備えること。回復の過程では波があるものだ。
また、自殺願望について。
リハビリの後半で、周囲は「もう治っただろう」という認識と本人の感覚のズレが危険だと書いている。これは、まさに自分のことだなと思った。
自分としては、「いつまでもグズグズしてはいられない」「休職の期限があること」「よくなったと見られないと見放される」などの理由で、自分の不安な状況などを伝えづらい。「毎日、図書館通いができている」「毎朝、決まった時間に起きれている」などよいところだけを伝えるようにしてしまいがちだ。
しかし、自分としては「気持ちがすっきりしない」「頭が重い」などの症状はいまでもつきまとっていることに不安を持っている。
このギャップにより、孤立が深まり、これに突発的な心身の不調が重なると自殺のリスクがグンと高まる。
自分は、つい最近経験したが、自殺願望あるいは自殺未遂というのは非常に苦しいものである。それまで自殺する人というのは、あるとき思い立ってポンと逝ってしまうものだと他人事で思っていたが、実際には死ぬか死なないかで非常に葛藤がある。
この苦しさはもうなるべく経験したくない。実際に至っていないが、これは死より苦しい。
なるべく人に相談することも大事であるが、「その悩みはいますぐ解決しないとだめなのか?」と自分に問うこともこの本に書いてあるとおり重要だと思う。
悩みというのはすぐに解決されるものでもないし、時間が経てば苦しみは消えることもある。それを抱えた状態で待つ姿勢も必要である。
うつ病と自分 ⑧自殺未遂とその後
2018年12月末から休むことに専念することにした。
しかし、この休むということが自分には難しかった。
1日中、家にいるということもなかなか難しい。散歩をしたり物販の在庫がまだ家にけっこうあり、それを見るたびに副業もできない自分を責めてしまっていた。
物販については、これから続けるかやめるかを判断できずにいたので、処分できなかったのだ。
散歩したり、図書館に行ったりそんなことをして日々をなんとなく過ごしていた。
2月になり3月に入ってもその状況は変わらなかった。
一方で、通勤訓練ということで、図書館通いは1月から始めていた。
2月からは、職場近くの図書館まで通う訓練をしていた。
体力面では、通うことは難しくない。できることはできるし、疲れ果ててしまうということはない。ただ、ずっと心がすっきり晴れることはなかった。自分を責める気持ちだけではなく、なんとなく将来の不安がもやもやとしてある。
3月も中旬になり、そろそろ復職についてのスケジュールが差し迫っていた。自分の年次では半年しか休職できなく、その期限が4月下旬になっていたのだ。
そのころ復職に向けた行動記録表を書くようにカウンセラーから言われ、同じ日に医師に相談すると、はっきりと復職できるかどうかも言われない状況だった。
その日から、非常に精神状態が悪い状態が5日ほど続いた。
1日目は、よく晴れた日だったが、自分の家から一番近いホームセンターまでロープを買いに行った。自殺するには、ロープが一番手軽と言われているのを知っていたからだ。どうせ死ぬなら少しいいものをと寿司を食べるが、あまり味はしなかった。2日目と3日目は部屋のドアノブにロープをかけて、何度も首にかけたが死ねなかった。脳裏には、母親が悲しむ姿が思い浮かんだのと、どこかに冷静な自分がいて引きとどめた。いや、単にやっぱり怖かったのだ。
4日目は、「完全自殺マニュアル」という有名な自殺の本を買って読んで、死ぬ方法をいろいろ考えた。飛び降り自殺は一思いにできそうなので、自宅のマンションの一番高い階の非常階段を何度も見に行った。ただ、やはり死ぬことはできなかった。
5日目は、非常に悩んだが、医者に行くことにした。医者にそのとき何を期待していたのかはよくわからない。「死んでいいよ」と言ってもらえるのを多分望んでいた。もちろんそんなことを言われるわけもない。というか、「死にたい」ということも伝えることすらできなかった。体調不良について話すと、薬を増やしてもらった。その日は色んな人に電話しようとしたが、できなかった。母親と、同じく休職中の友人など、あと命の電話にも電話しかけた。
医者からの帰り、自殺の名所と言われる高島平団地に向かった。そこで死のうとは真剣に考えていなかったが、完全自殺マニュアルにその団地のある棟だけ柵がないため飛び降りはいまでも可能とのことだった。行ってみると、現在でも柵は無かったが、落下防止のフェンスだけは張り巡らされていた。
この5日間の苦しみ尋常ではなかった。「死ね」という切迫した命令が脳から出されるが、死ぬのは怖かったり逡巡した気持ちがある。脳の別の部分がブレーキをかける。その狭間で自分は翻弄され続けた。気を紛らわすためにユーチューブでゲームの実況動画をひたすら見た。こんなに苦しいのなら、いっそラクになりたいと遺書を書き、通帳をわかるなところにおいて首にロープをかけた。体重をかけてはみるが、全身の体重をかけるという思い切りは出なかった。自分が自殺のままごとをしているようで、馬鹿らしくもなった。
自殺しようとして、昏倒して失敗したのではなく、それ以前のところで踏みとどまってしまった。まあ、失敗していたら、措置入院になり復職どころではなくなるので、踏みとどまってよかったのだとは思う。もしくは、苦しみぬいて自分で救急車を呼ぶなどしていたと思う。飛び降りでは、複雑骨折となり半身不随状態になっていたかもしれない。
ただ、一方でそのまま死ねていたらきっとラクになれていただろうなという気持ちはまだある。
生き残ってしまった。これから長い人生をどうするかというのはまだ不安がある。絶望感に近いものがある。
ただ、なんとか目先のことに集中してこなしたり誤魔化していくことで、絶望感を忘れて生きていくしかないのだと思う。
生にしがみつくのではない。絶望から逃げるのである。そのための現実的な対処をいくつか始めた。
まず、自分は副業を完全に辞めることとして、法人も停止して融資も一括返済することとした。少なくない金銭もかけてきたので、もったいない気持ちは強くあるが、損切は早いほうがよいし、なにより中途半端な状態にしておくと自分を苛み続けるのが怖い。これが自殺未遂後に自分のとった、現実的な対処のひとつだ。
次に、コワーキングスペースを借りて、平日はそこに通ってリハビリのための作業をすることとした。このブログもそのリハビリの一つとして始めたものだ。
復職まで猶予が一ヶ月を切ったが、今はなんとかするしかないなという感じである。
もしかしたら、復職することによって日々にメリハリができることにより変化もあるかもしれない。そんなことも少しだけ期待している。
ただ、いま自分ができることに自信がない。そこは、実際に自分がやってきた事実を積み重ねることにより、人に提示できる状態にしておけばよいと思う。そのことはカウンセラーと話した。
今でも、朝起きると死にたいという気持ちは湧き出てくる。だけど、「なんとか生きる方法を考えよう」と声に出して気分を変えている。
生きる方法、それはいつどんなときでも、あるだろう。それを考え選択し続けることが、生の絶望から逃げるためだと信じていきたい。
また、死にたくてロープに首をかけることもあるかもしれない。そのときでも、まだ生きる道は残っているのだ。
うつ病と自分 ⑦2度目の休職
復職後3つ目のチームに転属となる。
これまでの部署と異なり、社内の品質管理のためのツールを開発・運用する部署だった。
そのツールは自分はユーザーサイドとして使ったことはあり、どういうものかもわかっていたので、その開発は悪くないかなと思っていた。また、そこでの上長は自分のことをわりと期待してくれているようで、最初はよく声をかけてくれていた。
ただ、そこでも開発スキルが高くないために、仕事に時間がかかる。最初だからそんなものとは言ってもらえていたが、上長が自分に声をかける頻度が減っていくことから、期待は下がっているのだなと感じるのが辛かった。
1ヶ月に1回程度、上長と面談もするのだが、「もう少し早くできると思っていた」「勤怠が悪い」と注意を受ける。「遅くとも11時には出社してほしい」とも言われる。
そのころの自分は素直に、がんばって朝出社するようにしていた。だが、9月に入ってからの体調は転がるように悪くなっていった。
会社へ行くのが嫌というのがまずあるので、朝になってほしくない。そのため夜更かしをする。夜更かしをするから朝がより辛い。その悪いサイクルにも入っていた。
仕事はそれでもなんとかこなしていたのだが、10月の末になり会社の産業医から再度休職することを薦められる。その日のうちに主治医から診断書を出してもらい、休職することとなった。7ヶ月半ほどの短い復職期間であった。
2度目の休職
再度休職することになってしまった。まずは3ヶ月の休職期間となっていた。
このころの自分は、まあそれも仕方ないかなと、ある種流されるままになっていた。度重なるチームの転属と、薄いコミュニケーション。そんなものに心は十分に疲れ切ってしまっていたようだ。
当初は、この休職の期間に、今度こそ副業を軌道に乗せて、会社は辞めてしまえばいい。実家に帰って住んでもいい。と考えていた。
そこで、休職から2週間ほど経って、実家に一時帰る。両親に実家に住むことを相談してみた。しかし、父親の返答が渋く、スペースがないから難しいと言われる。自分が実家を出てから4年ほど経っていたが、実家はモノが整理されず溢れかえり、過去の自分の自室もいまは姉が寝起きしている状態だ。
その父親の反応を見て、自分はまた復職して働くしかないなと思い直した。親には親の都合がある。迷惑をかけられないと感じた。
会社を休んでから2ヶ月ほどは、それでも副業に精を出していたと思う。
しかし、12月に入り、Amazonを使った物販が利益がほとんど取れないこともわかり断念せざるをえなかった。メルカリの運営側の対応の変化などから大きな利幅を出すのが難しくなっていた。
そういう体外的な理由もあるが、一個一個の商品の小さい利益を重ねていく物販の仕事にも飽きが出たのか身が入らなくなって切った。あまりやっていても楽しくない仕事をするのはメンタルに良くないと思い、12月末から副業の仕事も一切ストップした。
年末には実家に帰った。
このころには精神状態がだいぶ悪くなっていた。死にたいという思いを常にもつようになってしまっていた。
街を歩けば、街灯にロープをかけて首を吊るイメージや、高いビルから飛び降りるイメージが湧いてくる。
この死にたい気持ちは、何が原因なのかもよくわからないのが辛かった。
いや、原因は会社員としての仕事もうまく行かず、副業の方もうまくいかずという逃げ場のない状況が原因なのだろうが、両方休んで距離をとっているはずなのに苛まれ続けるのが辛かった。
実家で親といても、その自分を苛む気持ちが強く非常に辛い年末年始を送った。
年始には、一年前のように初詣で朝早く起きて祈祷を受けるような気力は全くなくて、札を返して、無病息災の絵馬を買うだけにとどめた。おみくじは、悪いのが出たらより落ち込むと思い、引かなかった。
うつ病と自分 ⑥転属と起業の話
2018年の初夏のころ、新しいプロジェクトに転属となった。
復職してからすぐに入った部署では、ほとんど成果を出せずにいた。
私の務める会社にはメンター制度というものがあり、評価者ではない上のランクの人間が下のランクの人間と定期的に面談するのが通例となっていた。そのメンターの人には、わりとざっくりといろいろなことは話していて、会社をやめたいと思う話などもしていた。また、人事部に対しては、いまのチームだと成果が出しづらい状況なことも説明し、面談をしていた。
自分のメンターとなってくれている人がリーダーのプロジェクトに誘われるかたちで新しいプロジェクトに配属となった。
そこでは、プログラムの開発をメインに行った。
ここでの開発自体はわりと楽しかった。ひとつの仕事の単位があまり大きくはなく、仕事に対するレビューとレスポンスが早いのが良かった。相談しやすい雰囲気ではあったようだ。
しかし、ここでも自分の体調はあまりよくなく、定時である朝10時ぐらいに出社できなく、昼頃に出社という日が多かった。このことについては、一度注意されたこともあったが、なるべく社外での用事を減らすことで体力を整えるということ以外できなかった。
実際、このころはかなりいろいろなイベントに参加したり自分で主催することも多くなっていた。この数は7月ぐらいから減らし、8月にはほとんど無いようにしていた。
また、仕事も忙しくなり、自分では難しい作業があったりと残業も増えていた。
自分の会社では、復職6ヶ月目になると評価があり、自分でプレゼンを行い、その半年の状況について様々な意見を言われる。
そこで、自分は体調面がもう回復しているというような論調で説明してしまったことが評者たちとの認識に乖離があったようで、結構な反発を受けた。
自分はそのことで、落ち込んでしまい体調を大きく崩し4日間ほど長期に休んでしまった。当時の日記を見ると、怒りも感じていて不満を述べている。
しかし、今思うと、上司からしてみたら体調も安定せず、昼頃に来たり休みがちな人間を働かせるというのは難しいし大変だったと思う。
自分は、病み上がりなんだから手加減してくれと思っていたが、それも程度の問題があったのだろう。
そのプロジェクト自体は、顧客都合で8月末に解散することとなっていた。会社に復帰したところ、次にどこのプロジェクトに行くのかという話し合いをした。9月からは、社内のツールを作成している部署への転属になるという話になった。
このように、転属の頻度が早いのも、よくなかったかもしれない。成果を出せないとプロジェクトから出される頻度は早くなる業界の性質もある。
このように、自分が成果を出せなくなったことを書くのはとてもしんどい。しかし、自分はこれからまた復帰するにあたり、新しい人間関係、新しい仕事をしていかなくてはならない。そのために、昔の失敗したやり方は避けなくてはならない。そこで頑張るにせよ、ごまかすにせよ、だ。
起業した話
この会社でいろいろあったのと並行して、自分はこの時期に物販事業での法人を設立している。今思うと、そんなに軌道にも乗っていない時期に尚早だなと思う。
6月ぐらいに、開発の部署に転属する前に自分は「会社を辞めて独立しよう」とある日思い立った。物販のコンサルをしてくれていた先生から、法人を作れば、良い条件で銀行から融資を受けられるということを聞いていたので、やってみようと思った。
それまでは、メルカリがメインであったが、Amazonの方は利益率は低いながら資金をかければ儲けられると考えたためだ。この辺、きちんと試算もテストもなく突っ込んだのは蛮勇が過ぎるといまでは思う。
ということで、法人を作り融資を受ける準備をした。
法人自体はすぐに設立ができたが、融資を受けるのにはそれなりの期間が必要だった。会社を辞めようという気は、開発の部署に転属になりいったん無くなった。
会社に勤めながら、ビジネスをして、軌道に乗ったらやめればよいと考え直した。
このころの自分は行き当たりばったりの行動を繰り返してたいたように思う。会社の仕事でうまくいかないので、そのはけ口を求めていたのかもしれない。
実際、法人を作ったあとから会社での仕事が忙しくなり、物販の仕事はあまりできていなかった。自分は結局なにをしたかったのだろう。
このころは、
お金を使って、人を集めるイベントもしている。
また、高価なものを人にプレゼントしたりしたりと派手な行動が増えている。
その、はざまで揺れ動き、確実に精神と肉体は疲労の度合いを濃くしていった。